源平合戦の地を巡る
後世に語り継がれる源平合戦の名場面「扇の的」 その舞台は屋島だった。
【右画像:邨田丹陵筆 屋島合戦画帖 義経 弓流し 高松松平家歴史資料(高松 松平家 歴史資料)(香川県立ミュージアム保管)】
【右画像:邨田丹陵筆 屋島合戦画帖 義経 弓流し 高松松平家歴史資料(高松 松平家 歴史資料)(香川県立ミュージアム保管)】
平家が選んだ自然の要塞 屋島
都を追われた平家は、放浪の末、屋島に拠点を置くこととしました。安徳天皇と三種の神器を奉じた平家は、この地で再起を図ります。
やがて都奪還のため、一ノ谷(兵庫県神戸市)に兵を進めますが、源義経らに敗れ屋島へと撤退しました。
勢いにのる源義経は平家追討のため屋島を目指します。ここに「屋島の戦い」とよばれる合戦が幕をあけるのです。
現在もこの辺りには、安徳天皇社をはじめ、源平合戦ゆかりの地が点在しています。
やがて都奪還のため、一ノ谷(兵庫県神戸市)に兵を進めますが、源義経らに敗れ屋島へと撤退しました。
勢いにのる源義経は平家追討のため屋島を目指します。ここに「屋島の戦い」とよばれる合戦が幕をあけるのです。
現在もこの辺りには、安徳天皇社をはじめ、源平合戦ゆかりの地が点在しています。
「屋島」が選ばれたそのワケとは?
【理由1】讃岐国は、当時平家の支配下にあった!?
讃岐国(現在の香川県)は、平清盛の祖父、正盛が国司をしていたこともあり、古くから平家の支配下にありました。
都を追われた平家は、清盛の家人、田口成良を頼り、屋島に拠点を築きました。田口成良は、「屋島の戦い」でも 平家方として参加していました。
【理由2】屋島は、瀬戸内海の制海権を握る上で地形上重要な軍事拠点であった!?
『平家物語』(長門本)には、屋島には城があったとの記述があり、古く日本書紀にも「屋嶋城(やしまのき)」が見られます。
当時の屋島は完全な島であり、天然の要塞でした。また、東側は庵治半島との間に大きく入り込んだ入江が広がり、海から攻めてくるであろう源氏を待ち伏せするには絶好の前線基地だったのです。
讃岐国(現在の香川県)は、平清盛の祖父、正盛が国司をしていたこともあり、古くから平家の支配下にありました。
都を追われた平家は、清盛の家人、田口成良を頼り、屋島に拠点を築きました。田口成良は、「屋島の戦い」でも 平家方として参加していました。
【理由2】屋島は、瀬戸内海の制海権を握る上で地形上重要な軍事拠点であった!?
『平家物語』(長門本)には、屋島には城があったとの記述があり、古く日本書紀にも「屋嶋城(やしまのき)」が見られます。
当時の屋島は完全な島であり、天然の要塞でした。また、東側は庵治半島との間に大きく入り込んだ入江が広がり、海から攻めてくるであろう源氏を待ち伏せするには絶好の前線基地だったのです。
戦の天才 義経の戦術に迫る
平家の拠点である屋島を目指し、阿波(勝浦)へ上陸した義経は、在地の武士近藤親家を味方につけました。親家から、平家軍において四国での大きな戦力である田口成直(田口成良の子)の軍勢が伊予へ出兵していることを聞いた義経は、屋島が手薄であり、今が好機と判断しました。
また、当時の屋島はその名のとおり「島」であったため、通常であれば馬に乗っての攻撃は難しい場所でしたが、干潮時であれば馬でも攻め入ることができるほどの浅瀬になることを知っていました。そこで、今しかない!と一気に攻め込んだのです。
少ない軍勢を多く見せる
屋島の対岸に数百艘にも及ぶ軍船を隠し、海路からの源氏の襲来に備えていた平家ですが、背後からの急襲・火攻めに源氏の大軍が襲来したとばかりにあわてふためき、辛うじて船で沖へと逃げます。まんまと奇襲は成功し、屋島は義経の手に落ちることになりました。
実は、このとき屋島に集まっていた約3000騎の平家軍に対し、奇襲をかけた義経方は約150騎程度であったとされています。
数字では圧倒的に不利な状況の中、義経は道中の民家に火を放ちながら進んだため、平家方は源氏の大軍と勘違いし、我先にと海へ逃れたと言われています。
源平合戦の名場面として後世に語り継がれる「扇の的」
日も暮れかけ両軍が引き始めたころ、海上の平家軍から一艘の船が近寄り、船上の女性が扇を射るようにとの仕草を見せます。
これを見た源氏軍の総大将義経は、自軍の中から扇を射ることができる武士を探すよう命じるのでした。
当初、畠山重忠が選ばれますが、重忠は辞退し代りに那須為隆を推薦します。為隆も傷が癒えずと辞退し、弟である那須与一を推薦します。あまりの大役に与一は尻込みし、一度は辞退したとも伝えられています。
しかし、主君の命を断ることはできず、ついに的を射る役目を受けることを決意しました。
これを見た源氏軍の総大将義経は、自軍の中から扇を射ることができる武士を探すよう命じるのでした。
当初、畠山重忠が選ばれますが、重忠は辞退し代りに那須為隆を推薦します。為隆も傷が癒えずと辞退し、弟である那須与一を推薦します。あまりの大役に与一は尻込みし、一度は辞退したとも伝えられています。
しかし、主君の命を断ることはできず、ついに的を射る役目を受けることを決意しました。
決死の覚悟でのぞんだ与一
両軍が見守る中、扇が掲げられた船に与一は向かい、海面に突き出した岩の上まで馬を進めます。狙いを定める与一ですが、そこは海の上。無常にも船は揺れ、扇の的も右へ左へと狙いが定まりません。
与一は近くにあった岩に一心に祈ります。すると波は静まり、船の揺れも止まります。この時とばかり、与一は狙いを定め弓を放ちます。
与一の手から放たれた矢は、扇の的をめがけて一直線。見事に扇を射抜くことができました。その瞬間、敵味方を問わず両軍から歓声が沸き上がります。
与一は近くにあった岩に一心に祈ります。すると波は静まり、船の揺れも止まります。この時とばかり、与一は狙いを定め弓を放ちます。
与一の手から放たれた矢は、扇の的をめがけて一直線。見事に扇を射抜くことができました。その瞬間、敵味方を問わず両軍から歓声が沸き上がります。
今でも残る 那須与一のゆかりの岩
弓を射る前に祈ったとされる「祈り岩」と「駒立岩」
与一が弓を射る前に祈ったとされる「祈り岩」と、両軍から歓声が沸き上がった時に、与一が馬を止めたとされる「駒立岩」が、現在も残っています。
「駒立岩」は引き潮になるとその姿を見ることができます。
安徳天皇の仮御所 「六萬寺」
天平2年(730年)創建の六萬寺。
寿永2年(1183年)に義仲軍に敗れた平家は安徳天皇を奉じて西海に逃れ、秋には屋島に陣を敷きました。
屋島の御所が運営されるまでの間、安徳天皇は、三種の神器と共に翌年まで御行在所として六萬寺に留まりました。
六萬寺の茶室には平清盛公の三男宗盛が寄進した「六地蔵灯篭」があります。他にも、平家の公達が残した書などを間近に拝観することができます。
寿永2年(1183年)に義仲軍に敗れた平家は安徳天皇を奉じて西海に逃れ、秋には屋島に陣を敷きました。
屋島の御所が運営されるまでの間、安徳天皇は、三種の神器と共に翌年まで御行在所として六萬寺に留まりました。
六萬寺の茶室には平清盛公の三男宗盛が寄進した「六地蔵灯篭」があります。他にも、平家の公達が残した書などを間近に拝観することができます。
屋島寺宝物館
天平勝宝年間(749~757年)鑑真和上により開創されたと伝えられている屋島寺。
宝物館には那須与一の子孫が寄進した「源氏の白旗」や「源氏の勝臼」。土佐光起筆「屋島合戦屏風」「源平盛衰記絵巻」、狩野探信筆「屋島合戦絵図・那須与一の扇の的」などの絵画が収容されています。
境内にある梵鐘は「平家供養の鐘」とされています。また、境内の横にある池は屋島の合戦で戦った武士たちが血のついた刀を洗ったため「血の池」と呼ばれています。
宝物館には那須与一の子孫が寄進した「源氏の白旗」や「源氏の勝臼」。土佐光起筆「屋島合戦屏風」「源平盛衰記絵巻」、狩野探信筆「屋島合戦絵図・那須与一の扇の的」などの絵画が収容されています。
境内にある梵鐘は「平家供養の鐘」とされています。また、境内の横にある池は屋島の合戦で戦った武士たちが血のついた刀を洗ったため「血の池」と呼ばれています。